前回、米国のアニマルシェルターの歴史についてかなりざっくりと説明しましたが、日本の場合は少々事情が違います。日本の明治維新のころ、欧米にはすでに「人道的」アニマルシェルターが存在していたことは前述のとおりですが、その頃日本は、犬の個人所有が普及し始めたころでした。江戸時代までは、犬を所有しているのは上流階級のみで、庶民には犬を所有するという概念はなく、犬は通常、町犬として放し飼いにされていました。
文明開化による西洋文化の流入により、犬を所有するという文化も輸入され、飼い犬と野良犬が明確に区別されるようになりました。咬傷や狂犬病のおそれから、野良犬は警察によって捕獲され、警察に設けられた収容所に抑留ののち、ほとんどは殺処分されました。日本の犬収容所は行政主導(当時は警察)で設置されたのです。
同時に動物愛護思想も輸入され、動物虐待防止会(のちの動物愛護会、1902-1958)や日本人道会(1915-1958)といった動物愛護団体が設立されました(米国と似ています)。明治40年代に鎌倉の円覚寺内に設置された、捨て犬・捨て猫の収容施設「慈悲園」が、民営アニマルシェルターのはしりといわれています。動物愛護会や日本人道会は保護が必要な犬猫を「慈悲園」に収容しました。さらに日本人道会は東京市内の動物病院11か所に「小動物収容所」を設置し、避妊去勢手術も実施しました。大正の終わりころには、日比谷公園で収容犬の廉売(今で言うところの「譲渡」)も行われていました。
しかし、これらの活動が大きなうねりになることはなく、2つの団体も1958年に活動を終えました。その要因として、日本が戦争に突き進む中、犬猫どころではなかったということもありますが、団体としての活動よりも各会員の個人活動が主となり、団体自体が衰退していったといわれています。つまり日本の動物愛護活動が、各地の草の根活動によって支えられるという基盤がここで作られたのです。戦後に設立された、日本動物愛護協会、日本動物福祉協会、日本愛玩動物協会といった団体も、自らアニマルシェルターを運営するというよりは、草の根活動の後方支援の意味合いが強いです。各地の獣医師会の別動隊として組織されている「動物保護管理協会」も、自らアニマルシェルターを設置するというよりは、公営の動物管理機関の運営に参画しています。
そして20世紀の終わり頃から、公営の動物処分施設にアニマルシェルターの機能を付加した「動物愛護管理センター」が全国に作られはじめ、もしくは保健所の抑留施設が拡充され、現在に至っています。つまり日本において「アニマルシェルター」の多くが公営施設で、民間シェルターの多くが草の根レベルの小規模施設となっています。また民間団体の多くはシェルターを持たない、いわゆる「レスキューグループ」です。
※この項の執筆にあたり、日本愛玩動物協会「愛玩動物飼養管理士1級教本」第1編「日本における動物愛護運動の歴史と展望」を参照しました。
※一部文言を修正し、また参考文献を明示しました(2021年1月16日)。