殺処分を再定義する

何度もお話ししているように、「殺処分」とは健康状態に関係なく、収容期間を経過した動物をガス室で一斉処分していた時代には適切な用語であったかもしれませんが、現状にはそぐわない用語になっています。しかも「殺処分」という用語が用いられることにより、前時代的なガス室一斉処分が現在でも行われているという誤解を生じさせ、業務妨害まがいの誹謗中傷の温床になっています。

もちろん、収容数調整など行政都合による殺処分、すなわち真の殺処分については糾弾されるべきですし、ゼロにしなければなりません。注意すべきは、本当は収容数調整のための殺処分であるにもかかわらず、難癖をつけて「譲渡不適」をでっち上げて、手をかければ譲渡できそうな動物を殺処分するようなことが横行していることです。その原因は、環境省が各自治体に示している譲渡不適の判断基準(「取扱注意」の「案」とされていますが)があまりにも曖昧で、恣意的な解釈が可能である点です。前回私が示した「4点セット」を各自治体に義務付けたうえで、明確に基準を示すべきと思いますが、責任を負うのがいやなのか、各自治体に丸投げしています。自治体の対応によって、殺処分されるか否かが変わってくるという事態が起こってくるのです。動物たちにとって、自治体の区分けなどどうでもいい話です。たまたまそこにいたというだけで運命が変わってしまうというのは、どう考えてもおかしいと私は思います。

真に譲渡不適の動物を安楽殺すべきか否かは、動物福祉の観点から議論する必要があります。動物が快適に生涯を過ごすことができるようなシェルター(いわゆるサンクチュアリ)を用意することが本当に可能なのかということはもちろん、安易にサンクチュアリに動物が流入しないような仕組みづくりも必要です。サンクチュアリの運営母体(国?自治体?民間?)をどうするかという問題もあります。私は公設民営が望ましいと考えています。特に寄付に依存する民間団体に任せると、財政基盤が不安定で思わぬトラブルの原因になります。運営は寄付で賄うとして、少なくとも施設の建設には公費を投じる必要があると私は考えていますが、その原資は税金ですから、納税者の理解が得られるか否かという問題もあります。以上のことから、サンクチュアリの建設は現実的ではなく、動物福祉の観点から、真に譲渡不適の動物は安楽殺すべきと私は考えます。それは人間の都合ということにおいて、広い意味で「殺処分」といえるのかもしれません。

獣医療としての安楽殺は、それらとは概念が全く違います。獣医療としての安楽殺はあらゆる手を尽くしたうえで、「今そこにある苦しみ」を除去するための最終手段として用いられます。獣医療のオプションとして、安楽殺は決して手放してはならないのです。それは決して「殺処分」ではありませんし、明確に区別されるべきです。