【新春投稿・丑年によせて】肉食について

犬猫の殺処分に反対されている方の中には、しばしば菜食主義者の方がいます。その中には、ビーガンと呼ばれる完全菜食主義者から、肉よりも魚を選ぶという緩やかな肉食忌避者まで様々な方がいます。その思想は「犬猫を殺してはいけないのであれば、牛豚も殺してはならない」ということなのでしょう。

また一方、欧米の捕鯨反対運動に対して「欧米人も牛や豚を殺しているではないか」と批判する日本人もいます。「牛豚を殺していいのであれば、クジラも殺していい」という考え方です。

私はどちらにもくみしません。犬猫の殺処分に反対している人が、ビーフステーキを食べていたとしても、私はそれをおかしいとは思いません。たしかに理詰めで考えれば、その行動は矛盾しているかもしれません。しかし、矛盾しているのが人間なのです。もし一切の矛盾がない存在があるとすれば、それは人間ではなく「神」です。

人類の祖先は、もともと草食性でした。私たちが豊かな色彩を感じることができるのは、新芽や果実の色を判別できるよう進化した結果です。しかし地殻変動による気候変動の結果、豊かな恵みを与えてくれていた熱帯雨林の多くが消失し、新たな食糧を探す必要が生まれました。そして木の根を食べる草食性の人類と、肉食動物が食べ残した肉も食べる人類の、2種類の人類が生まれました。そして前者は絶滅し、後者は生き延び、私たちへとつながっています。その理由は単純です。肉という高たんぱく・高カロリーの食料を得た人類は、脳を急激に巨大化させました。巨大化した脳を維持するために、人類は肉食が必須になったのです。つまり、自らの行動に矛盾を感じ、肉食を忌避するという思考が生まれたのも、祖先の肉食により、脳が巨大化した結果なのです。

肉食に限らず、人間が生きていく過程には、様々な矛盾が生まれます。その矛盾が人間独特の文化を生み出しているのではないかと、私は思っています。矛盾がなければ、哲学も倫理学も宗教も芸術も生まれなかったかもしれません。特に宗教は、矛盾に悩む人間が気を紛らわせるための生活の知恵だと、私は思っています。

その証拠に、ほとんどの宗教には食に関するタブーがあります。自らが生きていくために他者の命を奪うという「罪」から逃れるには、3つの方法しかありません。他者の命を奪うのをやめるか、自らの命を絶つか、折り合いをつけながら生きていくかです。いくら肉食を拒否したとしても、他者の命をまったく奪わずに生きることは理論上困難です。そこで宗教は、折り合いをつけながら生きていくために、あえて食に関するタブーを設け、それ以外の物は食べてもよいと説くのです。それは無秩序に他者の命を奪わないための歯止めの役割も果たしていると、私は考えています。