「殺処分ゼロ」の論理的展開

前回も述べたとおり、インチキなしの本当の「殺処分ゼロ」を実現するためには、「蛇口を閉める」つまり強力な入口対策を実施することしか方法はありません。蛇口を開けたままでひたすら譲渡を繰り返しても自転車操業が続き、そのうち破綻します。蛇口にホースをつないで水を外に逃したとしても、それはただのまやかしです。

 

また入口対策により蛇口を閉めたとしても、その効果が表れるには時間がかかります。当面の課題として、現時点において「あふれ出しそうな」犬猫たちが多数存在しているのです。そういう動物たちの処遇についても考える必要があります。全ての犬や猫を譲渡し家庭に入れることは理論上不可能です。アニマルシェルターをたくさん作ってそこで終生飼養すればよいという人もいますが、「5つの自由」に基づく動物福祉を担保しながら、多数の動物を飼い続けることは並大抵なことではありません。殺しさえしなければ、動物たちを劣悪な状況で「飼い殺し」にしてもよいというものではありません。

 

そういった現状に目をつぶり、しかも実現可能な代替案を示すことなく、ただ単に情緒的理由で「犬猫を殺さないで」と叫ぶことは、きわめて無責任であるといえます。有効な入口対策なしに一切の殺処分をやめてしまったら、どういう結果になるのかという想像力に欠けているからです。たしかに殺される犬猫はいなくなるかもしれませんが、「生きていてもかわいそう」な犬猫が増えるだけです。ただ単に「殺さなければそれでよい」というのであれば、それはそれで結構ですが。

 

私は個人的信条としては犬猫の殺処分に反対の立場をとりますが、法規制を含めた強力な入口対策を実施したうえで、本当の「殺処分ゼロ」が実現されるまでの過渡的な措置として、あらゆる手を尽くしても譲渡や返還がかなわなかった動物たちについて「5つの自由」に基づく適切な管理ができないのであれば、安楽殺の完全実施が前提ではありますが、一定数の殺処分もやむを得ないと考えています。

 

それでも即時の「殺処分ゼロ」を要求するのであれば、少なくとも「強力な入口対策」と「5つの自由を担保した、終生飼養が可能なアニマルシェルター(=サンクチュアリ)の設置」を即時実行しなければなりません。いくら殺処分をゼロにしたところで、「生きていてもかわいそう」な犬猫が消えてなくなるわけではないからです。前者には動物愛護法の改正が必要ですし(法規制を伴わなければ実効性が担保できないからです)、後者には莫大な社会的コストがかかります。社会がそのコストを負担すべきか、仮に負担するとすればだれが負担するのか、冷静な社会的議論が必要です。少なくとも現在の日本においては、社会的コストの負担について社会的合意は得られていません(その結果、人間都合の殺処分が容認されているわけです)。社会的合意を得るためには、大義と明確なビジョンを示したうえで、社会全体に対して影響力を持つ人たちに向けてロビー活動を行うことが最も近道です。地方自治体の一般職員に説教したり、恫喝したり、業務妨害したり、SNSで顔写真や名前を晒すようなヒマはないはずです。

 

犬猫の殺処分をやめること自体は簡単ですが、殺処分に反対するのであれば、「生きていてもかわいそう」な犬猫たちの処遇についても考えていただきたいものです。