【年始に寄せて】「殺処分ゼロ」について再度考える その 1

あけましておめでとうございます。皆様におかれましては、私の戯言に1年間お付き合いいただき、ありがとうございました。今年も殺処分に関する正しい知識や、シェルターメディスンの最新情報などについて書き散らしていく所存ですので、よろしくお願いします。

 

年始の挨拶はともかく、私のブログのテーマは「殺処分」ですから、年初は「殺処分ゼロ」のお話から始めようと思います。

 

歪められた「殺処分ゼロ」

最初に申し上げておくと、私は犬や猫の殺処分には断固反対です。もちろん、現に苦しんでいて回復の見込みがない動物の安楽殺は別の話です。これは正当な獣医療として適切に実施すべきと考えています。「お前も殺処分に携わっていたくせに、どの口が言うのか」と叱られそうですが、とにかく行政都合による犬や猫の殺処分には反対です。

ですので、「殺処分ゼロ」というのは大変良い方向性だと私は思っていますし、目指すべき理想だと思います。しかしそれを行政目標にしたり、「達成」したことをアピールしたりするようになってくると、とたんに雲行きが怪しくなります。なぜなら、「殺処分ゼロ」にのみフォーカスしてしまうと、「殺さない」ことだけを考えるようになるからです。たとえそれが生き地獄であったとしても、生かしていればそれでいいという発想になります。私が一貫して「殺処分ゼロ」を目標や目的にしてはならないといっている意味はそこにあります。

 

「殺処分ゼロ」の裏側で起こっていること

「殺処分ゼロ」の裏側で起こっていることをご存知でしょうか。動物愛護管理センターへの過密収容、保護団体への丸投げ譲渡、そして無責任な遠隔譲渡など、「殺処分ゼロ」とは「動物福祉ゼロ」のことなのかとさえ思えてきます。また野良猫の引取り拒否による野外繁殖も深刻です。私はまさにそのような事態の真っただ中にいます。それだけに強い危機感を抱いています。

 

私が勤めている自治体は、かつては殺処分数のワースト上位の常連でした。しかし「殺処分ゼロ」を目指すという方針のもと、保護団体への丸投げ譲渡を始めたとたん、見た目の殺処分数は激減しました。しかしそれは保護団体の負担を増大させ疲弊させるばかりでなく、一部の団体による不適切な遠隔譲渡や「たらい回し」といった問題を生み出しました。ちなみに京都の「神様」宅で亡くなった犬の一部は、ウチの自治体から保護団体に譲渡された個体でした。たらい回しの末に、巡り巡って京都にたどり着いたわけです。

 

かつて殺処分数のワースト上位をウチの自治体と競っていた自治体の担当者から、「そちらのやり方を参考にしたい」と非公式に相談があった際にも、私はウチの自治体で起こっている諸問題を説明して「絶対にマネしてはダメ」と伝えました。その自治体は今でも殺処分数ワースト上位に君臨し、強い非難を浴びています。しかしそれは安易な方法に流されないと覚悟を決めた、ある意味立派な態度だと私は思っています。