【年始に寄せて】「殺処分ゼロ」について再度考える その 2

「殺処分ゼロ」VSシェルターメディスン

「殺処分ゼロ」を「達成」することは非常に簡単です。殺処分しなければよいのです。こんなに簡単で、手軽に自治体のイメージアップを図ることができる手段はありません。しかしそのために「飼い殺し」や「不適切譲渡」、「引取り拒否」などが行われているのであれば、そんな「殺処分ゼロ」には何の意味もありません。「殺処分ゼロ」という成果を讃える前に、その中身についてよく考えてみる必要があります。もし日本の「殺処分ゼロ」の考え方が「生かしておけばそれでいい」「殺処分を回避するためには、動物福祉を犠牲にすることも辞さない」というのであれば、それはシェルターメディスンの考え方とは真逆といえます。

 

かつて私は、シェルターメディスンは「安易な安楽殺に頼ることなく、収容動物の福祉を担保するための獣医療」であると表現しましたが、シェルターメディスンは「殺処分ゼロ」を目指すための獣医療ではありませんし、シェルターメディスンを本当に理解している人は安直に「殺処分ゼロ」とは言いません。なぜならシェルターにおける安楽殺を削減することはシェルターメディスンの重要なテーマであり、結果的に「殺処分ゼロ」になればそれは素晴らしいことであると考えますが、こだわるべきポイントはそこではないからです。シェルターメディスンが目指すのはあくまでも「動物福祉の担保」です。私が何度も申し上げているとおり、安易な安楽殺に頼ることなくシェルターの収容動物の福祉を担保するためには、収容される動物の数を減らしつつ(すなわち「蛇口を占める」)、譲渡や移送と言ったツールを用いながら、適切な収容数を維持することしかありません。シェルターメディスンという獣医療は、そのための知の結集であるといえるのです。

 

我々が目指すべき道

我々が目指さなければならないのは、すべてのペットが家庭で幸せに暮らすことができる社会の実現です。それが達成すれば、自ずと殺処分はゼロになっていくはずです。その順番を間違えているから、訳のわからない状況になってしまうのです。

 

そのためには、ペットの繁殖制限を徹底し「不要」とされるペットをゼロにすることと、飼い主がいないいわゆる野良犬や野良猫をゼロにしていくことを同時進行していかねばなりません。その過程においては、常に動物福祉を念頭に置かねばなりません。もちろん殺処分は最大限回避すべきで、そのための努力は惜しむべきではありませんが、あらゆる手を尽くしてもその動物の福祉が担保されない場合には、その苦しみから解放するために人道的な手段による安楽殺を実施せざるを得ないかもしれません。それすら嫌だと言ってしまうと、今の状況がいつまでも続きます。それはすなわち、動物たちの苦しみも終わらないことを意味します。

 

何度も言いますが、「殺処分ゼロ」は目指すべき理想ではありますが、それを目標や目的にしては絶対にいけません。そして「殺処分ゼロ」で思考停止してはいけません。「殺処分ゼロ」を、見たくない現実から目をそらす口実にしてはいけません。「殺処分ゼロ」を実現するためのロードマップを描きながら進んでいかねば、必ず道を誤ります。そしてそのツケは、他ならぬ動物たちが負うことになることを忘れてはなりません。